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・自分がよいと思っていること
○よい本を読むこと。
○よい先生に会うこと。
○確信できたことを実行すること。
○できるだけ嘘をつかない。
○自分が体験した不幸に人があわないようにする。回避する方法を家族や知り合いなどに教えてあげる。
・自分が参考にした言葉
○後になって後悔するような行為は悪いのである。(ソクラテスの言葉をプラトンが書き残したもの)
懐疑論を論駁する。
世の中には、懐疑論というのがある。哲学的懐疑論。
自分がじつはマッドサイエンティストがつくった桶の中の脳(マトリックスのような)とか、他人には意識がないのではないか(哲学的ゾンビ、独我論)、とか、天がふってくるのではないか?(杞憂)、宇宙が突然終わるのではないか(科学的仮説としていわれている。)
数学の答えは、日にちが変わると変わるのではないか(クワスのパラドクス)、
論理法則は実はたんなる極め付けで、証明がなく、正しいという保証がないのではないか?(論理法則の無限背進)
記憶はすべてでたらめなのでは?
世界は五分前につくられたのではないか?(ラッセルの五分前世界創造仮設)
たくさんあるのである。桶の中の脳は映画にもなり、哲学でも有名なので、知恵袋などで実際にそうではないかと恐れる人までいるのである。
自分も懐疑論にはまってしまって、独我論とか論破するためにずっと考えてきた。
今日やっと論破できたとおもう。
まず、懐疑論と、健全な世界観を両方科学的・学問的・哲学的仮設とみる。
仮説と考えると、仮説を支持する根拠を比べて、もっともたしからしい仮設を採用するべきである。
いま、「明日重力の法則が変更されてしまう」かもしれない、という懐疑論を考える。
たしかに、可能性としては、明日重力の法則がかわってしまうという世界を描き得る。なので、論理的思考的には、そういう仮説は可能である。
そして、明日も重力の法則は今日と同じであるという健全な仮設(常識や科学)がある。
健全な仮設を支持する根拠を考えよう。
まず、重力の法則がなりたつというのはいつでもどこでもなりたってきた。思考すら、脳のなかの重力があるから可能である。
つぎに、科学的総合判断として、今までの科学理論を検討して、重力が突然変更されるということを示唆するようなデーターや理論はまったくない。科学的総合判断から、重力は変わらないだろう、といえる。
次に、哲学的直観。時間は物理的属性としては、物理法則を変えない、という哲学的直観、および、いままで時間が無力だった、だから、それを自然を未来にも延長すべき、という哲学的直観がある。
それから、実践のなかでは、重力が変わらないということは自明である。実践しているとき、重力が変わらないということを自然に人間は知っている。
それから、常識。常識的に当たり前。
最後に信仰。神様が存在するから、突然重力の法則を無意味に変えることによって人間を混乱させることはしないだろう。
これらの根拠が「重力法則は明日も同じである」という仮説を真理と信じる根拠である。
一方懐疑論のほうの仮設「重力法則が明日突然なくなってしまうかもしれない。」
これを支持する根拠は、科学のなかにも哲学のなかにも、常識でも、実践の中にも信仰の中にもない。
よって、健全な仮設のほうを真理とみなすべきである。
知性を可能にする原理、そして懐疑論が標的としてきた可能性。
斉一性の原理(法則がいつでもどこも同じようになりたつ、未来にも。時間にかかわりなく)
論理法則の正しさ(論理学の法則がただしいこと)
数学的計算の正しさ(加算の結果がいままでしたことのないものだったら、突然結果が変わるというような仮説)
独我論は斉一性の原理を用いて、脳状態が同じようであれば、意識状態も同じだろうということと、脳を接続したら他者の意識が見えるだろうという科学的推測によって、他者も存在する(哲学的ゾンビでない)ということのほうがもっともらしい仮説であるといえる。
世界を五分前に創造したということを支える考古学的、物理学的、宗教的、日常的、実践的根拠はなにもない。
懐疑論の根は、新奇な説、いままでの常識を覆す説、われわれが当たり前とおもっていることをはねのけるような説、それへの驚きから、それが真理であるのではないかという迫力に押されて、怯えてしまう。そして、慎重にその懐疑的仮説を支える根拠を検討することを怠ってしまう、ここにあるとおもう。それは哲学者でも一般人にもあてはまるとおもう。
だから精神的健全さも懐疑論をはねのけるためには必要であって、科学や常識、実践すること、も真理を選択するために必要であるといえる。(懐疑論者は実践的課題にあまりいどんでいないし、科学的思考にもあまりなじみがないのだろうとおもう。)
これで、斉一性の原理(帰納による法則の証明に使う)
論理法則
数学法則
記憶のたしからしさ
他者の意識の存在
概念を記号が指し示すことの一義性(グルーのパラドクスにたいして)
これに現象学的センスデーターの真理性を加えて、すべての知識の基礎とできるはず。
が基礎づけられた。これによって再びすべての学問と人間知を哲学が基礎付けるという基礎付け主義の構想が可能になるとおもう。むかしの論理実証主義のように、すべての学問を公理化するという目標も復活させてもいいとおもう。
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